シャトー・ラトゥールと聞くと、多くのワイン好きが思い浮かべるのは、カベルネ・ソーヴィニヨンではないでしょうか。
力強い骨格。
圧倒的な熟成力。
数十年という時間をかけて完成へ向かう、ボルドーを代表する偉大なワインです。
ところが、以前ご紹介した「グラピヨン・ド・シャトー・ラトゥール1989」について調べていると、とても興味深い事実に出会いました。
そのワインは、ラトゥールを象徴するカベルネ・ソーヴィニヨンではなく、メルローの二番果から造られたと紹介されていたのです。
最初は私も驚きました。
「ラトゥールなのにメルロー?」
今日は、その違和感から見えてきた、ラトゥールというシャトーの哲学について書いてみたいと思います。

ラトゥールといえばカベルネ・ソーヴィニヨン
ラトゥールのグラン・ヴァンは、一般的にカベルネ・ソーヴィニヨンを主体として造られます。
ポイヤックらしい力強さ。
長期熟成に耐える構造。
それこそが、多くの人が思い描くラトゥールの姿です。
もちろん、ボルドーではメルローも重要な品種です。
ラトゥールでも補助品種として栽培されています。
しかし、「幻のラトゥール」と呼ばれる一本がメルローに由来しているという事実は、とても意外でした。
幻のグラピヨン1989
世界的オークションハウスChristie’sでは、グラピヨン・ド・シャトー・ラトゥール1989について、
「ランクロ(L’Enclos)のメルローの二番果が完熟し、10月末に収穫されたものから造られた」
という趣旨の説明が紹介されています。
正確なセパージュは公表されていないようで、見つけることが出来ませんでした。
しかし、この説明から分かるのは、このワインが通常のラトゥールとは異なる背景を持つ、極めて特別な一本だったということです。
主役になるはずではなかった小さな房「グラピヨン」。
それが1989年という特別な気候の中で成熟し、一本のワインとなりました。
だからグラピヨンは、ただ希少なワインなのではありません。
自然が生み出した偶然と、それを見極めた人の判断によって生まれた、歴史そのものなのです。
幻のグラピヨン1989でラトゥールが守ったもの、残したもの
ここで、ひとつ考えさせられることがあります。
もしラトゥールが、
「今年はメルローの出来が素晴らしいから、グラン・ヴァンもメルロー主体で造ろう」
と考えていたらどうでしょう。
それは、私たちが知るシャトー・ラトゥールとは違うワインになっていたかもしれません。
反対に、
「ラトゥールはカベルネ・ソーヴィニヨン主体でなければならない」
という考えだけなら、グラピヨン1989という一本も生まれていなかったでしょう。
ラトゥールが守ったのは、
その土地、その年、その畑が生み出した最高のものだけを世に送り出すという哲学です。
だからこそ、グラン・ヴァンという伝統は守りながらも、特別な価値を持つメルローの二番果を、グラピヨンという別の形で残したのでしょう。
私は、この判断に一流ブランドらしさを感じます。
守るべきものは守る。
だからこそ、例外を例外として認めることができる。
一流とは、例外をなくすことではない。
守るべきものを守りながら、例外に価値を見出せることなのかもしれません。
哲学があるからこそ、自由になれる
この記事を書きながら、ワインだけの話ではないような気がしてきました。
私たちは「自由」と聞くと、何でも好きなように選べることを想像しがちです。
でも、本当の自由は少し違うのかもしれません。
哲学があるからこそ、自由になれる。
中心となる考え方があるからこそ、その周りに余白を持つことができる。
例外を認めることができる。
「タペストリー」は、中央の一本の糸があるからこそ、美しい模様を織ることができます。
もし中央の糸が切れてしまえば、余白は自由ではなく、ただのばらばらな糸になってしまいます。
ラトゥールも同じです。
伝統という一本の糸を守っているからこそ、グラピヨンという美しい例外が生まれました。
なぜ自分は、それを選ぶのか
このブログでは、ワインや投資について書いています。
でも、本当に伝えたいのは知識ではありません。
ワインも、お金も、投資も。
すべては、自分の人生の選択肢を増やすための手段だと思っています。
その選択肢が増えた時、大切なのは、
「なぜ自分はそれを選ぶのか」
という問いです。
ラトゥールが守ったのは、カベルネ・ソーヴィニヨンという形ではなく、その名前に込められた哲学でした。
私自身も、このブログという場所で、ワインという一本の糸を大切にしながら、お金や投資、人生の豊かさについて考えていきたいと思っています。
ワインという一本の糸を中心に、人生や投資、豊かさへと世界を広げていきたいからです。
グラピヨン1989は、そんなことを改めて教えてくれた一本でした。

