最近、ワイン界隈で少し話題になっているニュースがあります。
日本を代表するソムリエ、田崎真也氏が、
「日本のナチュールを装ったワインの98%は飲めたもんじゃない」
という趣旨の発言をされた、というものです。
もちろん、言葉だけが独り歩きしている部分もあるでしょうし、切り取られ方の問題もあるかもしれません。
ただ、この話題を耳にしたとき、私はどこかで「やはりそうか」と、静かに腑に落ちる感覚がありました。
「個性」という言葉で包まれるもの
いわゆる「自然派ワイン」「ナチュール」と呼ばれるワインを飲んだとき、
「なんだか雑巾のような香りがする」
「飲んだ後に、不快な余韻が残る」
そんな経験をしたことがある方もいるかもしれません。
ワインの世界では、
こうした香味は「オフフレーバー」と呼ばれます。
本来であれば、
醸造過程での問題や衛生管理、酸化などによって生じる“欠陥”として扱われてきたものです。
けれど最近は、それらが
「野性味」
「自然らしさ」
「唯一無二の個性」
といった美しい言葉で説明される場面も少なくありません。
もちろん、自然派ワインのすべてがそうだと言いたいわけではありません。
実際、驚くほど透明感があり、生命力に満ちた素晴らしい自然派ワインも存在します。
だからこそ私は、「欠陥」と「個性」を曖昧に混ぜてしまう空気に、少し違和感を覚えるのです。
「自然=放置」ではない
私は常々、
「自然」と「放置」は違う
と思っています。
それは、
庭の植物を育てることでも、
人との関係でも、
人生を調えていくことでも、
きっと同じです。
たとえば人間関係も、
本当に「自然にうまくいっている」関係というのは、
何もしていないから成立しているわけではないと思うのです。
言葉を選ぶ
距離感を調える
相手の変化を感じ取る
ときには一歩引き、ときには歩み寄る
そんな繊細な微調整を、
お互いが無意識のうちに積み重ねているからこそ、
「自然な関係」が続いていく。
本当に自然なものほど、
実はとても繊細なものだと思うのです。
ブドウの持つ個性をまっすぐ表現しようとするなら、
むしろ造り手には、より高い集中力や観察力が求められる。
特に、酸化防止剤を極力使わない造りであればなおさらです。
余計なものを削るということは、
「何もしなくていい」という意味ではなく、
より丁寧に見守る必要がある、ということでもあります。
だから私は、
単なるコントロール不足によって生じたノイズまでを
「これが自然だ」と受け止めてしまうことには、
少し慎重でいたいのです。
違和感を押し殺さない
マーケティングの力や、時代の空気というものは、とても強いです。
「これが最先端」
「これを理解できないのは感性が古いから」
そんな空気が広がると、
私たちはつい、自分の感覚よりも“正解”を優先してしまいます。
でも本来、
自分にとっての「心地よさ」や「豊かさ」は、
もっと自由で、
もっと個人的なもののはずです。
誰かの評価や流行よりも、
自分自身の感覚の方が、
本当はずっと大切なはず。
もし心のどこかが
「これは違う」
「なぜか落ち着かない」
と感じているなら…
その違和感を、無理に飲み込まなくてもいい。
感性を鈍らせながら“正解”に合わせ続けることは、
少しずつ、自分自身から離れていくことでもある気がするのです。
誠実な一滴に出会うために
私は自然派ワインそのものを否定したいわけではありません。
むしろ、
土地や気候、
その年の空気や造り手の思想までも映し出そうとする姿勢には、
強く惹かれるものがあります。
だからこそ、
「自然」という言葉が、
時に便利な免罪符のように使われてしまうことに、
少し寂しさを感じるのです。
本当に誠実なものには、
どこか静かですがすがしい透明感があります。
それはワインだけではなく、
人との関係でも、
日々の暮らしでも、
きっと同じなのだと思います。
無理に飾らなくてもいい
過剰に演出しなくてもいい
けれど、その裏側には、
見えないほど繊細な気配りや、
丁寧な積み重ねがある。
私は、そんなものに惹かれます。
派手ではなくても、
身体や感覚に無理なく馴染み、
飲み終えたあとに、
ふっと呼吸が深くなるようなワイン。
そして、
流行や多数派の空気に飲み込まれず、
「自分にとっての心地よさ」を大切にできる生き方。
これからも私は、
そんな“誠実な一滴”を、
人生の中で少しずつ選び取っていきたいと思っています。
この世界には、
「効率」や「正解」だけでは測れない豊かさが、
確かに存在している気がします。
ワインの余韻のように、
静かに人生を調えていくための手紙を、
「葡萄の館からの手紙」で綴っています。
もし空気感が合いそうでしたら、
ふらりと遊びに来てください。
▼ 葡萄の館からの手紙
